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被ばくの症状 9 被ばくの「実相」

改めてヒロシマナガサキの体験談を読み込んでみると、その症状のとらえどころのなさは多岐にわたります。
そのため、ときどき、ところどころで、「被ばくの実相」…と言う言葉をさまざまな著作でも使用されてる方をお見掛けします。
とらまえきれないその症状…。

では、現在は、実相はとらえきれたんでしょうか?
その実相をとらまえていこうという試みが、

攻撃を受けてから30年すぎても、被ばく者は苦しんでる。いや、苦しみが増してる…。

日本準備委員会被爆者調査委員会 浜谷正晴(同誌 P44~)

この1年間の健康上状態では、「病気がち」の人が59.7%をしめ、そのうちの78.7%、つまり全体の47%の人が、この1年間に入・退院を経験しています。それを性別・年齢別にみた場合、男の31~34歳(19.5%)、35~44歳(35.4%)が病気がちであり、女の方がどこの年齢層においても、男より病気がちがかなり多い。

被爆後の健康状態においては
「入院や長期間の通院を要する病気をした」人が67.9%
「全体として身体の調子が良くなかった」人が17.1%
「おおむね健康だった」人が11%

被曝によって現在の生活が不利になったか?
不利になった 56.2%
1000人に不利になった理由を質問してみると
健康上の不利が、職業や仕事に大きな影響を与え、家族の負担を加重してること
被爆者であることが結婚や子どもの将来に大きな影を落としてること
原爆症や死への不安、査閲や疎外感、劣等感のために、被爆した事実を隠し、生きる意味を喪失してる人も多いことが示されています

また、医学的調査も行われています。
被爆時の状況についての調査の質問票です。実はこの症状別がとても重要で、被ばくの初期症状として位置づけられてきました(やけどなど負わなかった人たちにとって)

この初期症状は、なんのことない症状のように思えます。

日本各地で調査が行われましたが、東京推進委員会のまとめの図が見やすいので、引用させていただきます。

嫌なことは忘れたい…と思っていても、調査を受けると決意された方が健康ではない…状況がうかがえます。
このアンケートに答えてくださったとき30代の人たちは、爆撃を受けたときは10歳未満です。40代の人たちは10代です。
若い人たちが30年たって苦しんでる。

そして、被爆者認定を受けられた方の病気の症状の内訳を見てみましょう。

世間の人からみて被爆者認定をうけてるかたは、ガンや白血病と思われてる方も多いかもしれません。
しかし、今から役50年前、成人病などが少なかった時代に、これほどの症状を重複してもったりしてることがそもそも、異常だと思えます。
よくみると、循環器障害が突出していますね。(心臓やリンパ、血管系など)全身にかかわる症状が突出しています。

1967年の報告書では、症状だったものが、どこかの臓器のトラブルに発展してる様子がうかがえます。

先ほどの初期被ばく調査は、以下の図を参考にしてると思います。

こうしてみると、被ばくの経路が見えてくると思いませんか?
だから、全身防護服で、顔全部を覆うのではないか。少なくとも、口から、胃、腸までを守ることができる。身体の内部に入り込むことは止めることができるとは思いますが、核攻撃は瞬間の攻撃なので、防護服を着るヒマすらない。
そして、被ばくは全身病、どこに症状が出るかわからないということもうかがえます。
この図をみれば、確かに爆心地から3キロメートルまでは症状もたくさん出ていますが、かといって5kmまでの範囲でも症状が出てる人がいます。
被爆者援護法は1957年にできました。そのときは2kmまでの被ばくと、されたのです。
昭和32年、3kmに拡大されました。

結局、被ばくをして、後遺症があとから深刻になる、といことが、まだわかっていなかった。
NGOが調査してる1977年でもまだ、その深刻さが見えていなかった。
これが被ばく後約30年の段階です。
そして「被ばくの実相」という言葉が自然に出てくる。

では、被爆直後は、被ばくのことをどう思ってたのでしょうか?
原爆投下から約40日後の医学生への講義
日本の原爆調査の第一人者といえば、東大医学部の都築正男氏になると思います。
(別の機会にプロフィールをご紹介するとして)
原爆投下は8月6日です。
広島から東京医大に運び込まれた女性の白血球数が異常に少なくて、亡くなりました。
解剖などしてこれは…ということで都築正男氏は広島に向かいます。
そのあと、9月にはアメリカ軍と打ち合わせすることになるのですが。
被ばく当初の人々がどんな状態だったか、そして、当時まだ後遺症が出るなんて思ってなかった、楽観論を少し紹介したいと思います。

【「広島新史 資料編1」より引用

被害者の治療について

原子爆弾傷には治療法が無いとされていました。病院が全く破壊され、 救護の手が無かったため、犠牲者が多かった。約二万の熱傷患者が宇品地区に泣き叫んで救護を求めていたが、水を飲ませてまわるのが精一杯であったとの話からもその参状が想像されると思ひます。

私が広島に参りまして、早速すすめたたことは刺戟療法で、自家血筋肉内注射輸血、ヴィタミンB・C剤の投与、肝臓製剤、食塩水、リンゲル氏液、 五%葡萄糖液等の皮下注入でした。
一番必要なことは絶対安静で、動かしたために死んだ例が多数あります。 たんかで運んだだけや、鼻血のみで死んだのがあります。鼻血を止めて命をとりとめたのもあります。

発病後、一週間持ちこたへたのは治る、何とかこれをとおりぬけると治ります。少量づつ(五○ないし一○○mリットルくらい) 輸血が続けうれば結構です。しかしこれは現在広島地方では仲々、実施が困難です。

白血球減少のある人は安静を守り、少くも今後二ヶ月間は用心が必要であります。そして栄養の多い、ヴィタミンの多い食物をあたへれば結構です。

かかる人々を健康診断するに際して注意することは、もちろん上述の原子爆弾傷の症状を参考として明らかなことであるが、最も確実な検査法は血液檢查、特に白血球数の減少状況を知ることである。ただし、現在、広島地方では白血球數の測定は仲々困難であるから、その場合には赤血球沈降速度を測定し、その一時間値が三○ミリメートル以上の場合には要注意者、五○ミリ以上の場合には軽症者としてそれぞれ指図を行うべきであろうと思います。問診だけで見当をつけようとするには爆発後,嘔吐,食欲不振,口内痛,下痢、脱力などの症状があったか否かを確めることです。

原子爆弾傷はただ一回の障害であるため、放射能の害は約一ヶ月をえると回復を始め内臓の障害も再生へ向うものと思う。しかして、約二ヶ月以上を経ると重篤な発病者は無くなり、軽度の障害を受けたものもだいたい健康をとりもどすものと信じる。
(昭和20年9月17日 東京帝国大学医学部学生に対する講義要旨)】

それから、1年2年と時間が経過するうちに、原爆の後遺症がさまざまな形であらわれていき、都築正男氏も、「軽度の障害をうけたものも、だいたい健康を取り戻す…」など口が裂けても言えない状態になっていきます。
彼の記録を呼んでいると、医師ですので、大変細かな気づきもたくさんあります。政治的状況で、二転三転する発言もありますが、だからこそ参考になる。

広島・長崎が、被ばくの原点であり、そこにあらわれてきてるさまざまな症状こそ、人類がその苦しみの体験から学ぶべきこと。
それを専門家が料理してしまうと、まったく別のものになってしまって、へんてこな認定裁判がずっと続いてきました。
だって、今わかってることで、被ばく者を切り捨てても、未来にわかることで、それも被ばくの症状だったんだ、ってなっていくんですから。
そこを科学者や裁判官は、わかってるのか?あえて無視してるのか?
無理がある。
国民に迷惑をかけた、いらぬ負荷をかけたという自覚がない。
みなさまには、さまざまな体験談を読んでおくことをオススメします。
体験談を書く…という作業は、経験されたかたがたにとって、とても苦しいものです。
命がけ…で書かれた方もいらっしゃると思います。
しかし、専門家が言うことと、国民が体験したことが、ずれていく。
そのことをわかるようになります。
今日は、NGOの健康調査(被爆後30年)と、東大の医師(放射線被ばくのスぺシャリスト)の都築正男氏、のみた初期被ばくをご紹介しました。
放射能の雲の下で、溶けた身体ではいずりまわらされた人たちの立場こそ、私たち全国民が共有すべきものですし、世界の誰にもその苦痛を二度と体験させたくない。
それが人情です。人の思いです。
あまりに被害が甚大で、とうてい一言で言い表せない。
そして、その被害は80年たってもまだ続いているのですから。
ビタミンの多い食べ物を…と都築氏が指導しても、当時の広島長崎でどうやって手に入れたらいいのでしょう?
しかし、被ばくして実家に帰り、食欲がなくて、桃しか食べられなかった被ばく者が、命は助かった…という体験談、ありました。

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