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1.242025
被爆の症状 3 保養に来る子どもたちの家族のようす
1992年から始まった、「チェルノブイリへのかけはし」の保養。
子どもたちの体調のつかみどころのなさもあり、生活文化も違うので、受け入れはとても大変でした。
毎食、毎食食べるものが口にあうか、あるいは日本の子と仲良く遊べてるか?(突然おもちゃをなげだしたり、怒り出したりする子もいたし)
しかし、保養のビフォーアフターで、子どもたちの全身の様子が違うのは誰の目にもあきらかになってきました。
とくに、まったくそしらぬふりをしていたご近所さんから、子どもたちの顔色が良くなったとか、髪につやが出てきたとか、「観察結果」をつげられることもあり、驚いたという笑い話もあります。
ただ、どうしても思い出話になってしまうので。
まずは、子どもたちを送り出すベラルーシの汚染地に住む家族たちの様子を事故の体験談としてまとめてくださっていたものからご紹介したいと思います。
この方のエリアはチェルノブイリからだいたい120kmぐらいのところです。
汚染は同心円状に濃淡があるのではないので。
(本来なら、このあたりと印をつけたいところですが、ベラルーシで日本人が写真を撮ったりしてて、スパイ容疑で逮捕されています。場所が特定できるような細かさはさけたいと思います。早く停戦してほしいですね)
赤い丸で囲んだエリアあたりはストロンチウム汚染もあり、事故から早期で小児甲状腺がんなどが発生がはじまりました。
「チェルノブイリは私の心の中に」 アチペンコ・ジーナ
私の愛するベラルーシ! なんと美しい自然よ! なんと温かな人々よ!
でもチェルノブイリ原発事故が、人々の生活を破壊した。チェルノブイリは、第2次世界大戦に匹敵する。戦争は、不運で、苦しみで、悲劇だ。
チェルノブイリ原発の大事故は、1986年4月26日に起きた。巨大な黄色の雲が、我が家の野菜畑から見えた。今まで見たこともない雲だった。その雲は、強い風に乗って、砂と灰になってやってきた。そして雨となった。私は家の中に走りこんだ。とても恐ろしかった。通りには黄色い薄層のある水たまりがいくつも出来た。誰も、何が起きたのか知らなかった。
時私は地区の教育学区の監督官として働いていたけれど、そこでも災害のことは誰も何も知らなかった。
そのとき、私の夫はミンスクの第五病院に入院していた。彼は私に電話してきて、間もなく自分がゴメリに移動させられると言った。なぜなら事故の被害者のための場所を空けないといけないからだという。どんな事故かという説明はなかった。
5月1日のメーデーの日、学校の生徒たちは皆、町の広場を列を作って歩き、集会が行われた。とても暑い日だった。
何人かの子供が倒れて、救急車で運ばれた。爆発事故に関する正確な情報は何もなかった。ようやく5月3日か5日になって、全員仕事場で集められた。そして私達はチェルノブイリ原発の火災のことを聞かされたのだが、爆発事故については、何も聞かされなかった。
私達はガーゼのマスクをするように言われた。この地域の子どもたちは全員ロシアのキャンプに避難するよう指示された。
私は、子どもたちの出発の際、汽車に乗せる責任者だった。汽車は正確に発着し、駅は多くの子どもたちと見送りの親でいっぱいだった。見るのがつらかった。発車の合図が流れると、恐ろしい音でいっぱいになった。子どもたちはすすり泣き、親たちは泣き叫んだ。子どもたちが親と離れるのは初めてだったのだ。母親たちの喪失と不安の感情は言葉で伝えられるようなものではない。
(廃村になり、人々が戻ってこないように、埋めて建ててしまった村)
そして、親たちも、一体自分の子がどこの町に行くのか正確に知らなかった。全ての子ども達を避難させるのに、丸1週間かかった。子ども達を送り出した後、親たちは仕事場に戻ったが、何もすることができなかった。なぜなら、彼らの心は不安と悲しみでいっぱいだったからだ。町は沈黙になった、子どもたちの声はもう聞かれず、小鳥のさえずりも聞こえない。
私は、物理の教師として、ベラルーシの人々にとって何が起ころうとしているか理解した。
しかし、学校や幼稚園の構内の土壌の放射能除去が行われると決まった際、私は自分の意思でそれらに出向いた。汚染された土壌を削り、炭を取り除き、学校や幼稚園の床や、窓やセントラルヒーテイング暖房器を清掃した。保健所の職員が放射能を測定した。もし、放射能値が高すぎる時は、私達は再び清掃し、磨きなおした。
子供たちを再び学校に受け入れるための準備が必要だった。
私はザポロージェと リパ村の学校や幼稚園で作業に従事した。今は、ここには学校も幼稚園も、そこに住んでいた人々も、もう誰一人としていない。
チェルノブイリ事故は私の人生を、ほかの人々の人生同様に、二つに引き裂いた。「事故の前と、その後」と。
チェルノブイリ事故が起こる前、私たちの生活はもっと安定していた。明るい未来を信じていた。しかしチェルノブイリ事故の後は、私も他の全ての人も、子ども、孫、親戚のことが不安でたまらない中に生きている。私たちの心は恐怖で一杯だ。未来が恐ろしいものに思える。
放射能は、人間の免疫機能を破壊する。風邪程度の病気であっても長期の治療を必要とし、時に慢性化する。誰もが、今は自分の家族に起きていなくても、いつ自分の家族にふりかかるかも知れないと思っている。
不運は私の家族にも起こった。
私の弟が死んだ。彼はソフホーズ「モロゾヴィチ」の議長をしており、30キロ内の汚染地域から牛を避難させたのだった。事故からたった3年で死んでしまった。私の夫も死んだ。血流障害と心不全だった。私の娘の夫は、肺の手術を受けた。肺の一部が切除された。私自身も病気を免れることはできず、卒中で倒れたことがある。ほとんどどの家庭でも同様の状況が起きている。
私は、他の国の方々、特に日本の、ベラルーシの人々を助けてくれる皆さんに、とても感謝しています。
ありがとうございます!