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被ばくの症状2 保養は発症の予防

 日本での保養の始まりは、「チェルノブイリ救援募金」(代表吉沢弘志氏)が、保養運動をよびかけていました。1991年に千葉で始まりました。
当団体は1992年に活動を始めました。

 保養運動のコアな方針は、ドイツ人たちが示したように、医療ではなく家族として迎え入れて楽しい夏休みをプレゼントする…にありました。
医療援助ではない。
汚染された大地に住み、汚染されたものを食べて抵抗力を落としてる子どもたちに、元気になってもらって発症の予防を!という趣旨でした。
これなら、一般人でもできる!


 
自分がどうして、その話に、ひどくひかれたかというと、わが子の食物アレルギーがひどくて、3年間は、まったく外食すらできない。私がおかしなものを食べると、母乳を飲んだわが子が顔を真っ赤にして苦しんでいく姿をみて、食べ物の大切さを骨身にしみていました。
そして、抵抗力をあげるには、安全な食べ物がとっても大切だと実感していたからです。
なんどもアレルギーで中耳炎を繰り返していましたが、耳鼻科のお医者さんが「アレルギーなんてないんだよ!お母さんが神経質なんだ!」と怒ったときは、泣きそうになりながら、内心、あんたが時代に遅れてる、と思い腹がたってしかたありませんでした。不勉強にもほどがある。
医者が、遅れてくるんです。
今、アレルギーなんてない!なんて言える医師はいないでしょう?
子どもたちに異変が起こっていて、それを医学会がとらまえきれてない。
かと思えば、ステロイド剤を乱発して、それをぬれば確かに、皮膚の症状はみごとになくりますが、しだいに強いステロイドじゃないと効きが悪くなり、とうとうステロイドが効かなくなると、お医者さんは無責任にさじを投げるのです。ステロイドは病気を治してるんじゃない。症状を抑えてるだけ。
食事療法して外遊びなどして体力つけるか?ステロイドか?
今から35年前は、そんな状態だったんです。

 やれやれ、やっと自分の子の食物アレルギーが治ったぞ、と思った時に、チェルノブイリの子どもたちが汚染食品をたべてるので、きれいな食品をたべさせて遊ばせてあげる運動だ!という情報を聞いたときは、「これはチェルノブイリのお母さんたちが本当に大変だからやってあげたい」という思いにかられました。とてもじゃないけれど、他人事には思えません。

 
 しかし、実際に子どもたちを受け入れてみると、子どもたちの症状はさまざまで、一人として同じ…症状といえないのです。
(アレルギーならわかりやすいですよね)
チェルノブイリの子どもたちがやってくる、となると、多くの人たちが「白血病の子」が来ると思ってた人も多かったようです。
しかし、日本にやってくる子はあくまでも、発症前の子ども。
つまり、保養は抵抗力をあげて、発症を予防する、ということが目的なのです。
私は、自分の体験から、そらそうだろう、と腑に落ちていたんですが、これがまた、被ばくに関して詳しい被ばく知識人界隈の人たちから大パッシングを受けることになりました。

まず、「抵抗力をあげる」という言葉が通用しない。
『被ばくしてる子どもが転地療養したぐらいで健康になるわけがない』
「だから、保養のあと半年から1年は元気でいられる…というかけすての保険のような話です」
『それでは保養に来られない子どもたちと、保養に来た子と寿命に差がでる、差別だ』
(死ぬときはみんな一緒が平等…という馬鹿げた思想)
『航空運賃のお金で薬を買えばもっとたくさんの子を救える』
(どこの薬屋のまわしものか)

実際、ヒロシマナガサキの被ばくの後遺症を考えたら、がんや白血病になっていない、チェルノブイリの子どもたちが保養などで元気になるわけがない、というのも、考え方としては、理解はできます。
しかし
そうじゃない。
当時の私は28歳ぐらいで、還す言葉をもってませんでしたが、どこかで「あなたたちは大きくまちがってる」と思っていました。
それは、「たとえ1%の可能性でも、親であれば、その子が元気になるなら、やってみるだろう。たとえ半年や1年でも」
という考え方と、彼らの考え方は、交わることができない、のです。
30年以上たった、今ならば言えます。
たった一晩、子どもが、かゆいとか、おなかが痛いと泣いていて、それが毎日続いてるのが、半年から1年、その症状がおさまるのなら、親ならだれだって、それにかけます。
やってもらいたいし、やってあげるべきですよ。
そういう考え方…。
あったこともないベラルーシ人とも、ドイツ人たちとも、そこは、一致できてたのです。
不思議ですよね。

もちろんそのことで、長い間、保養運動は批判されていました。
しかし
子どもたちの体調のつかみどころのなさのほうが、私たちの運動にとって大きな比重を占めていました。
たとえば、子どもたちの集中力のなさ、なのか、疲れやすさ、なのか、性格なのか?
全然、わからないのです。
一緒に生活していても。
言葉の通じない子どもたちだから?
日本のホームステイ家庭には付き添いの大人も一緒に来ていましたので、子どもたちは伝えたいことや疑問に思ったことは質問できていたと思います。

2年にわたり、75名ほどの子どもたちの記録から、症状を抜き書きしてみました。
最初の保養は1992年です。事故から6年です。
その当時の子どもたちは、チェルノブイリ事故のときは4~6歳で被ばくしてしまっています。
この自覚症状は、本人が言っていたり、あるいは里親さんが付き添いの人から聞いたり、さまざまな方法で、子どもたちの症状を抜き出したり記録したものです。
(アンケート方式などではないので、数字はもっと多くなる症状もあるだろうし、とらえきれてない症状もあります。子どもは自分の体調のことは案外わからないものです)
保養は医療検査はしない…というのが、ベラルーシ政府との取り決めとのことで、血液検査などのデータではなく、あくまで自覚症状。
いくつもの症状を重複して持ってる子どもたちもいました。

まさに「病気の花束」ですが、まだ発症しません。
とくに、小学校高学年の保養は大事と言われていました。
なぜなら、第二次成長期がはじまるまえに、保養しておくと、細胞分裂が盛んになったときに異常が起きにくいから、というものです。

とくに、いちばん、よくわからなくて困ったのが、「心臓周辺痛」と「甲状腺障害」です。
付き添ってきたベラルーシの大人に聞くと、「子どもたちはみな、甲状腺障害です」
甲状腺障害ってどんなこと?
と質問すると、付き添いの方たちも、「実はどんなことをもたらすのかよくわからないのです」

たとえば、甲状腺機能亢進症とか、低下症とかそういう病名がついたものではなく、成長の速度が遅いとか、なんとはなしに、体調がスッキリしないとかそういうことを総合していたのでしょうか?

白人なので、顔色が悪い時は、「灰色」とか「ねずみ色」なんて、ベラルーシの大人たちが表現していましたが、子どもたちが帰国前に「りんごのように真っ赤なほっぺた」になって、千歳空港に集合できたときは、ほんとうに保養って元気になるんだ!と実感したものです。


札幌の大乗寺というお寺にひとまず、千歳空港から到着。そこから3家庭にわかれて5人ずつでホームステイ(1992年)

日本の生活や文化になじんで、どんどん元気になっていきました。

結局、子どもたちの自覚症状というのは、自分の身体の変調を理解しきれていない。
ものごころついたときから、そういう体調なので、そういうものだと思ってる。
保養でその症状が消えてはじめて調子がいいという状態を、わかった…という話もありました。
ベラルーシ訪問して、母親たちに聞き取ってつくったのが、こちらの図。
普通の小学生が、そのエリア一帯の子どもたちが、いくつもの体調不良を抱えている、それが、被ばくなのだとわかるのに、とても時間がかかりました。

子どもが、膝がいたい、疲れやすい、なんて、おじいさんみたいになるんだな、と。
これはほんとうに大変なことだと思いました。

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