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愛と放射能の天秤 11 スモルニコワ先生2 汚染地での生活

スモルニコワ先生は、チェルノブイリ事故のときから、汚染エリアの子どもたちの検診を行ってきたので、彼女の医師としての体験などを紹介していきたいと思います。
子どもたちの体調が悪い話ですので、日本の事故を思い出して辛い、と言う方は、無理をせずに。
大きな地震がいつきてもおかしくない状況ですので、新しい事故を念頭において、2011年のときのインタビューをご紹介します。
今日の話は、事故から14年が経過しようとしても辛いかもしれません。傷つきそう…と思う人は読まないでくださいね。

日本の原発事故後(2011年)に、日本でインタビューしたときの内容です。
(チェルノブイリの救援でこのような話をきいて、通信にかいて、日本の方に理解をいただいて募金をつのっていたのですが、自分の国の子どもたちの話となると、自分も聞きたくない…と思うことがあります。小児甲状腺がんの増加など耳を覆いたいです。客観性を持てない…のはこんなにツライことなのか…。
たとえば、日本で事故が起きる前は、「汚染された畑でとれたものを給食に売る人がいる」というと、お話会に来てくださった人たちは、憤慨して、なんてひどいんだ!と。しかし、その同じ話を事故後にすると、シーンとなってしまいました。事故を体験するというのはそういうことなのだと思います。薄甘い正義感で原発事故は乗り切れないし、放射能ガン無視でも乗り切れません)

(チェルノブイリ事故後の測定の数値)
汚染された地域から移住した人たちの内部被ばくのレベル、血液、甲状腺、肝臓、移住の前に図りました。軍隊はしたけれど、その数値は間違いと言いました。
うちの病院では、
軍隊の機器は核戦争のための危機でしたから、そのデータの間違ったのかもしれません。
(注・事故当時は旧ソ連時代でしたので、それらのデータが公開されることはなかったのですが、逸話として、あまりに数値が高すぎる、測定器が壊れてる…という話はよく出てきますが、フクシマ原発事故から避難してきた人たちの外套を計測したら数字が高すぎて、測定器が壊れてると話していた医師がおられました。それで外套を脱いではかったら、なんとか側的できたと。機器は壊れてないですよね…。)

まず、一番へんなのは無気力、神経系、眠れない、けいれん、子供たちは長い時間走ったりとんだりできない。いちばん大事な問題は鼻血でした。
鼻血は普通突然に起こりました。寝ているとき、授業、1回だけでなく。
事故の前はけんかだけで、
そのとき、鼻血が突然起こった子供たちのお母さんたちが病院につれてきました。
普通鼻血は血圧、血管、疾患など。各子供は血液検査をすると決めました。
専門家は私たちの地域にいないので、小児科の医師が調査しました。
赤血球や白血球も高すぎたり低すぎたり、血圧の問題もありました。私たちは知らなかったので血管を強くする薬を渡しました。
そのような対策をとっていましたが、鼻血のケースを何度も起こりました。今日、数日間後、数週間あと、繰り返し。

悪い粒子放射性核種は皮膚や鼻、口から、のどに入れて、粘膜にたまりました。血管を弱めてそのような問題が起こりました。
放射能の入ったものを食べると胃に入って、血に入って循環します。
血管がもろくなって出やすくなる。
鼻血は疾患ではない。
他の疾患のほうが問題。
もちろん、甲状腺の疾患、血液の疾患・白血病、あとで他の器官の悪性腫瘍があらわれました。セシウムとかヨウ素とか、どんな放射能が関係しているかわかっていますか。
ゴメリ医学研究所によると、いちばん問題を起こすのはセシウムですが。
その時、ヨウ素でした。

日本に比べてベラルーシはヨウ素がありません。最初の週は放射性ヨウ素を子供っも大人も入れてしまって、甲状腺のホルモンを分泌するために必要ですからヨウ素は甲状腺にたまって、甲状腺の癌を含めていろいろな甲状腺の病気を起こしました。
フクシマでもあると思います。
日本はヨウ素があるので、いろいろなセシウムが理由とする問題が起こるはずです。いろんな器官の悪性腫瘍が起こるはずです。
でも、ヨウ素が起こす問題も甲状腺も起こりやすい。ベラルーシに比べてその規模が小さいかもしれませんが、その問題があるはずです。
セシウムの問題が子供たちにどんな影響をあたえたか。
セシウムはいろいろな器官の問題を起こすけれど、いちばんの問題のは心筋。とくに子供は心臓心拍異常がおこりやすい。心臓のほか、肝臓と腎臓の問題が起こりやすいです。

Q:スモルニコワさんが事故後、検診の子どもたちを見たときに、おかしいなと思ったことは
A:
顔や皮膚が青白い、貧血。そして、手を触ると、汗をかいている。甲状腺の機能異常をわかりやすい。
授業のあと、家に帰ってすぐに寝ます。疲れやすい。短い距離を走っても疲れる。高い熱のとき、腹痛。オシッコの問題、とても少ない。検査して、その子供たちは、腎臓一つ、先天性奇形。とわかった。
そして身体の皮膚は黄色い、多くのケースに、髪の毛が抜けやすくなりました。
それらの疾患を治すことができませんでした。
先天性奇形、チェルノブイリのあと数がすごい増えて行きました。
奇形の深刻さ。特徴的な。
先天性奇形なら手首、腕のない、頭が大きすぎ、指が4つとか6つの子供たち、脊髄ヘルニヤ、心臓や肺の疾患。生まれて息を吸えない。

ℚ:障害がある子が生まれてそれはチェルノブイリのせいとみとめられたか
A;
まず、事故の後、最初の年、先天性の奇形は大きくなかったけれど、89年からケースがどんどん増えて行くようになりました。特別な研究所はデータを集めて調査しました。90年に汚染された地域から移住させられた子供たち、だえき、泌尿器、血液、食べ物や水の検査、をして細胞の変化をみつけました。
バンダジェフスキー博士は、妊娠中のお母さんはとくに高い放射能の受けると赤ちゃんは先天性のレベルが高い。
94年に先天性奇形はチェルノブイリのせいと認められました。
今先天性奇形のある子供たちは今ドキュメントをもらいます。そのような子どもたちは今でももらいます。

Q;妊娠中に異常がわかった場合

A:妊娠中赤ちゃんは奇形があると危機が現れました時、医師たちはお母さんに手術を勧めました。
手術についてベラルーシは宗教的に中絶はだめだと言われていますから女性は中絶しませんでした。高い汚染レベルを受けると多くの女性たちは不妊になりました。
妊娠できると幸せだと考えて中絶しませんでした。放射能にかかわるお母さんの問題。
(政府にかくれて検査を逃れて産むの意)
お母さんの放射能のレベルが高かったから、母乳も汚染されていましたから人工乳を飲んでいました。母乳をしぼって捨てていた。

Q:20ミリシーベルト、500ベクレル/Kg 食べている人に対するアドバイス(2011年の日本の基準)

A:まず、放射線について予備知識をみにつけたほうがいい、放射線は危ないことを習うべき。その人々はきれいないものを食べたりきれいなところにうつったほうがいい。
子どもたちは汚染されないところへ移動したほうがいい、機会がなかったら1年間数回保養したほうがいい。

(注う:記事では15キュリー以上となっていますが、実際には、内部被ばくの影響もあるので、それ以下のエリアでも奇形の問題は大きな問題で、むしろ小児甲状腺がんより、出産時の問題のほうを多く耳にしました。このような問題はセンシティブです。ヒロシマナガサキでは、先生性の異常の問題はなかった…と言うことになっています。
放射能の被ばくの問題を調べると、必ず、相対する意見が存在します。つまり、まだ、被ばくによる被害のメカニズムは科学的に解明されていません。
また、ベラルーシでは、出産した直後の妊婦に、赤ちゃんを見せるのでその場で、若い妊婦の精神が異常をきたした、などという話をよく聞きました。ヒロシマナガサキのデータが真実だとすると、低線量内部被ばくのほうが、次世代に影響がでるということなのかもしれません。実際に、出生率の低下は大きな問題となっていきました。
このような問題は国が公表してないことも多いです。)

Q:25年たっても甲状腺癌が起こっています。ヨウ素がないのに

A;ベラルーシがヨウ素ないけれど、他の半減期が長いやセシウムストロンチウム、などのエレメントは崩壊して被曝しています。
そのような核種は人の身体でいろいろな器官にたまります。セシウムもストロンチウムも甲状腺や腎臓や骨にたまります。
今、汚染地に住んでいる人々は甲状腺やほかの器官のリスクは今でも高いです。
汚染地に住んでいる人はずっと汚染されたものを食べて吸ってその核種を身体に入れます。
高線量の地域で長時間で住んでいるのは危ないです。

Q:子どもの癌について、先生の地域では?(1~15キュリー)

1966年からずっとブダで医師として働きました。86年まで20年間の経験があっても事故の前、子供の癌のケースは一人二人だけ、糖尿病や甲状腺の腫れがありませんでした。ですので、1986年あと、そういうケースがだんだん増えて行きました。
子供の癌を治療する経験がありませんでしたから難しかったです。
まず、1988,89年、1歳の子供は、白血病がでました。ゴメリで検査をしました。彼は半年して亡くなりました。6~7歳のスベータ白血病で、ベラルーシとイタリアで治療を受けたけど、薬がなくて5年後亡くなりました。
5年後(1991年)甲状腺と腎臓の癌が増えました。
そしてそのあと、小脳の癌、目の悪性腫瘍、いちばんむずかしいのは1歳2カ月のナースチャという子宮の癌になって不妊になりました。
ナースチャの両親はお父さんもお母さんも、家族をたくさんをつくりたかったけれど、一人しかつくれなかった。

Q:スモルニコワ先生の周囲は食べ物に関して気をつけていますか?

A:事故の後すぐ、汚染地に住んでいた人は食べ物に気をつけましたけど、今は、時間がたつと、あまり気をつけません。一つ一つの家族は気をつけるけど、あまりしません。
政府は国内で生産せれたものはきれいだと言うのを信じる。
汚染された人たちは魚や狩りの肉を計測します。

事故の後、最初のとし、汚染レベルの高い村には郵便の人や先生、医師たちは、放射レベルを図る機器がありました。
誰でもそこへ持って行ってそのレベルをはかることができました。時間がたつとなくなりました。今、そのような機器は大きな企業だけあります。穀類、肉、牛乳をはかって基準を高くなると取り除きます。
そのような研究所へ持ってくることができるけど、研究所ではデータを出さないで大丈夫といいます。

日本でもそのようなところでも設定しなければなりません。住んでいる人はそこではからなければなりません。

特に日本の汚染された地域に住んでいる農民たちはそれをして政府は調査をしなければならない、日本は経済的にできるだろう。

Q25年たって人々は次々と病気になっていくなかで、スモルニコワさんは落ち込んだりしませんか。

A;25年たっても罹患率が減ってきませんでした、
病気な子供や先天性の疾患の赤ちゃんもいます。若い人は病気がちです。
生産年齢の死亡率があがっている。男性60歳まで、女性は55歳まで。そのような人々の死亡率が高くなりました。子供の両親が亡くなって、祖父が子育てします。
そのような子どもたちを保養させて、学校や大学をみつけるという活動をしています。
去年、亡くなった人の25%は生産年齢。

q:汚染地域で一番大事なことは何?

A:まず、被曝を受けている人は、まず外部被ばくと内部被ばくを下げたほうがいい。
きれいな地域へ移動すること、子供たちをきれいな地域へ移動させる。
可能性がなければ1年間に2回保養に出して、きれいな食べ物を食べさせて身体から放射能を出す。
実は汚染されている食べものを食べないほうがいい。食べ物の汚染を下げる対策をしたほうがいお。子供に変な兆候があったらすぐに医者に行かせてください。
そして、自分が住んでいる地方の放射レベルを下げたほうがいい。
ソ連のとき、人々は自分の家、道路を洗いました。水で洗ったけど効果は低いけど、ホコリや砂も問題になります。小さな道や村はほこりが問題になりました。
日本はアスファルトがありましたから、いい。

最後に日本のお母さんへの励ましの言葉
私はもうすぐ70歳になりますが、放射能安全対策をとって元気で生きています。
あなたもいろいろな対策をとると元気に、あなたの子供たちも元気でがんばってください。

このときは、スモルニコワ先生は、簡易の血圧測定器をもってきていて、血圧を測定しながら、高い時はすぐに横になって休んでいました。
元気で生きています…というのは、元気でいられるように努力するという意味です。
出産の異常について語ることは、ベラルーシ政府から追及があるかも…と心配になった部分です。
内情はさておき、出生数が増えるためには、子どもたちを汚染地から移住させたり、汚染のないものを食べさせていくことが必要です。
もちろん妊娠予定の女性たちも。
あまりひどくなると、妊娠すらできなくなります。
このようなことは、汚染地域で起こることなので、都会のエリアでは被害はよけい見えなくなると思います。
スモルニコワ先生と雑談していたとき、いちばんつらかったのは事故から15年後くらいかな、チェルノブイリ事故のとき子どもだった子たちが出産年齢になったとき。
(注:チェルノブイリ事故は内部被ばくの規制がなされなかった期間が続いたので)

キュリーについては、先のブログで計算方法を紹介させていただきました。
しかし、「深さ5㎝」で「1kg」で汚染土壌を採取した場合、1キュリーは569 Bq/kgぐらいです。
ベラルーシでは、これの6掛けで外部被ばく、4割は内部被ばくと考えていきます。年齢、土地などで、カタログがありますが、あまりに専門的になりすぎるので、つまりだいたい0.5キュリーから、ベラルーシ政府の健康管理対象になるのです。
深さ10㎝であれば、2キュリーというふうになっていきます。

ベラルーシでは、チェルノブイリ事故前にガンの子どもたちがほとんどおらず、事故後にドイツが救援として、小児がんの専門病院を建てました。
戦後補償としての位置づけで、ドイツはチェルノブイリ救援の先頭にたっていたともいえるかと思います。

最後に、もし何かが起こっていても、それはあなたや、お母さんたちのせいではないです。
放射能を日本に持ち込んで、ばらまく可能性があるものをごり押しして、絶対に、外部に放出しないと言い切っていた国策の責任です。
責任の所在を間違えて、自分を責めないでください。

話の中で、スモルニコワ先生は、きれいな土地に移住したほうがいい、ということを折々語られていますが、彼女は、移住の選択エリアに住んでおられるので。
どうしても移住できない家庭のための保養であり、救援活動でありました。

保養もボランティアで、日本の私たちは参加していましたが、それはベラルーシだからです。

日本の事故の場合は、国の責任で保養、移住を行うべきです。

(もちろん、国がそれに気づくまではボランティアが必要であっても…です)

最後に…スモルニコワ先生と原爆資料館で一緒に写真にうつってるイーゴリ君は、小学校の高学年のときから背が伸びず、里親さんが心配して自費で3か月保養で、続けて招待しておりました。
無事に背が伸びて、小さい子どもたちの踊りのチームの小さな先生として日本にやってきたときの写真です。

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