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1.32025
愛と放射能の天秤 2 救援してるのに怒って抗議された件
チェルノブイリの子どもたちの保養(1か月のホームステイ形式の転地療養)をはじめて受け入れたのは1992年です。
それから、毎年2010年まで受け入れを続けていました。
しかし最初の頃は、保養運動そのものをやめるように、よくわからない方面からバッシングを受けていました。
さらに、受け入れた子どもたちの行動スタイルが全然理解できない。
いわゆる、生活文化の違いで、トラブルになることも多かったのです。
なかでも、「子どもたちがワガママ。高級官僚の子どもたちが混じってるに違いない」というどこが発信地かわからない疑いも大きな声になってきました。
それからベラルーシへ里親訪問として、事務局や里親さんたちが訪問して現地調査をしてくることが始まりました。
私が、最初に訪問したのは1994年でした。
これは、旧ソ連という共和国連合が崩壊し(1991年の12月末)、経済も崩壊して、システムが何もかも機能していないときでした。
そして、日本の保養に選ばれてるのは高級官僚の子どもたちなのかどうか、チェルノブイリの汚染地域であるゴメリやブラーギンなどを訪問しました。
北海道へは、ゴメリのチェチェルスク地域という小児甲状腺がんが多発して、緊張感が増している地域からの子どもたちが多く、事務局として100件以上の子どもたちの家庭を訪問しました。1992年・1993年に保養に来た子どもと、1994年の夏に保養に来る予定の子どもたちの家です。
ウラジミール先生というそのエリアの体育教師の先生のガイドでホームステイしながら、家庭訪問したのですが、本当に泣き出したいくらい生活が苦しい家庭ばかりでした。
国が崩壊するというのはこういうことなのか?とにかく、子どもたちも親も、衣類は必要最小限しか持ってない。どの家庭にも洋服ダンス一つしかないのです。噂になってるような高級官僚の家…というのも、村に存在すらしないことがわかりました。
すべてがコルホーズという集団農場に属した公営住宅(日本風に言えば)ばかりです。
自分の家の家庭菜園を耕し、牛や豚を自家用で飼い、自給自足していました。お店にいっても商品棚は空っぽです。
そもそも、その地区の共産党の幹部はまっさきに事故後に移住してしまったと。
子どもたちをていねいにしつけるなんて余裕はどこの家庭にもないってことは、もう一目でわかりました。
そして、すべての家で子どもたちの体調を聞いたときに、母親たちは、不思議とみな同じようなことを言うのです。
保養に来れる子どもたちは、まだ病名がついてない子ども、いわゆる発症予備軍とよばれていて、「チェルノブイリ・エイズ」と呼ばれていると。
汚染地域の子どもたちはみなどんよりとして、白人というのは顔色が悪い時は、「ねずみ色」してるというのだなというのは、その時聞いた言葉です。
そして、すべての家庭訪問を終えた後、ウラジミール先生が、「ここにはお金持ちの子どもなんていないんだ!わかったでしょう?日本のヒロシマの医者が来たから、助けてもらえると思った。なのに小児甲状腺がんが放射能のせいじゃないといったんだ!嘘をついた!だから助けてもらえなくなった!誰だってわかる。事故前は小児甲状腺がんがなかったのに、事故のあとから小児甲状腺がんになる子どもたちが出てきたんだ!あなたは日本人だから、私たちを救援する責任がある~!!!!」と、想いのたけをぶつけられました。
そのときまで、私は、主婦にもできる保養で、チェルノブイリの事故で苦しんでる人たちに少し貢献できたらいいな、ぐらいの気持ちだったかと思います。
しかし、「日本人として……??」知らない誰か嘘つきの罪滅ぼしのために、子どもたちを受け入れるの?
と面喰いました。
言葉は通訳の人が通訳してくれますが、そのときのウラジミール先生の激情は、生徒を助けたい教師の愛情そのもので、その見えない愛情のボールをバシーンとぶつけられたような衝撃は、通訳なしでも伝わってきました。
たった一人の人間が、そのエリアの子どもたちの健康について、日本だけでなくドイツやイタリアなどに保養に送り出すために奔走してる姿をみたときに、もしも、自分がその汚染地域の教師なら、ここまでできるだろうか…。
車もない中、10km歩いて子どもたちの村を回ることも毎日のように。
(当時は、ベラルーシでも保養運動が始まったばかりで、鎖国同然だった旧ソ連の農村地帯から、海外に健康のために保養に行くなど、農民たちもとても不安がっていました)
同じ人間として、生き方を問われてるように感じ、ウラジミール先生が子どもたちの保養を続けてるうちは、日本でどんなに反対されても、続けようと思いました。
そして、くだんの「ヒロシマの医者…」が何をやらかしたのか、あとあとわかることになりました。