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原発事故は誰のせいですか?

あけましておめでとうございます!
実はこの言葉、2011年以降、なかなか、心から口に出せない…抵抗がありました。
胸がつかえるというか。
そして
今、あの能登半島地震から1年を迎えて、あっという間の1年で、ガザの子どもたちがあんな風に殺されてるのをみて、ああ、自分が生きて年を越しただけでも、ありえない奇跡なのかな…と思うようになりました。
毎朝、核戦争が起きていないか…起きてからチェックする習慣がついてしまった。
すっかりブログも書けなくなっていたのですが、これから何かが起こって、伝えることすらできなくなったら後悔するということだけは、お伝えしていきたいなと思いました。
ブログが欠けなくなった理由は、いくつかあります。
紹介させていただいた専門家が…仕事ができなくなったり、事故直後のブログは、どこでお話会をしてどう回っていたか、連絡先がたくさん載っていて、それも危険でした。また、あまりに、理不尽な事故対応が毎日のように起こり…書いても書いても、それが古い情報になってしまう。
何より、大人たちが、日本の社会が子どもたちを守らない話であふれていたこと。
そんな社会が情けなくて悔しくてつらかった。
自分で読んで、PTSD発症しそうになる!
そこに書かれてる膨大な悲しみつらさ不満。消してしまいたかったわけじゃない。
次の原発事故が起きたとき、また必要になるのかもしれません。データは残っています。
そして、こんな健康法がいいよ、と書こうと思っても、先に出口がふさがれているようなことに直面する。(おいおい書けたらいいですね)
そして、いちばん精神的にしんどかったのは、ロシアとウクライナの軍事紛争ですね。これは毎日がつらい。
私たちは、チェルノブイリの子どもたちのために…と活動してきて、まさにその世代が兵に取られていく。
ウクライナもベラルーシもロシアもともに乗り越えてきたのに。
テレビででたらめばかり流されて、知識人がが知った顔で嘘をどうどうとばらまいているのをみると、本当に呆れます。
(プーチンが末期の甲状腺がんと言ってた人は、テレビから追放されるべき)
さて
今年の3.11で事故から14年を迎えるところです。
なぜ、日本と言う国の責任で、原発事故対策(人間救済)ではなく、「復興」が優先させるのか。
結局は、経済優先…という価値観が日本をダメにしてるんだなと、つくづく感じます。
人間というのは、自分の人生のさまざまな場面で、判断の連続です。
何を着るか、食べるか、買うか、寝るか、起きるか、どんな人とを結婚するかしないか…勉強、職業などなど。
そして、自分で何も寄与できないと思わされてる、思い込んでることに「社会」もあるかと思います。
社会は自分と関係ないわけがなく、原発などという巨大産業と、自分という関係は、像とアリンコのように力関係に差があるように感じてしまいますよね?
でも、やはり、社会を良い方向に変える責任はあると思います。
必死で「温暖化を阻止するために原発を」という価値観を、テレビやマスコミから訴え教え込まれます。
しかし、日本は地震国に原発を55基までふやして、原発でエネルギーつくってきて、これほどないくらいに、理論通りなら非温暖化に寄与してきたのではないでしょうか?
でも、海に垂れ流してきた温排水が海水温を上昇させることに寄与していたとしたら?
温暖化を原発で阻止できるのか?
テレビで言ってることは、半分しか信用しない…という思考のクセをつけたほうがい、身のためだと、私は思います。
これはあくまで自分の経験からですね。
たとえば、原発事故の後、「いやいや、放射能はね、そんなに害をなさないんだよ」と言いまくってた人たちいましたよね。
で、あの人たちはどうしてそんなこと言えるんだろう?って思います。
私たちが何かいえば、エビデンスうんぬん言う人も事故当時はいて、本当にかわいそうに思いました。
ヒロシマナガサキで起こったことの、原爆投下当時とその後の健康調査や、あなたは被ばくしてないと除外されたエリアの人たちの健康被害をすべてデータ化されていないし、知ってることも、すべて論文化されてるわけじゃないってことを、多くの人は知らないと思います。
それで「エビデンス出せ」と言う。
かわいそうに、被爆者のデータが、すべてつまびらかになってるわけないじゃん。
原爆という兵器の殺傷能力調査を、なぜ、日本の民間人が見られるようにしてると思うのか。
つまり、「このぐらいの放射能なら心配ありません」という人たちが、とても「気持ち悪い宇宙人」かなにかに見えてました。他人の健康にかかわりのあることを、「大丈夫」と言い切れる無神経さ。
その人は、放射能のことを心配してる人たちをかわいそうに思って、安心させてあげたいと思ってそういったのかもしれません。
しかし、その人の言うことを信じた人の体調に異変が起こった時、「責任はとってくれない」人であります。
私たちは、原発事故が起こって、すぐに逃げたタイ、逃げられたらどんなにいだろう、いやだいやだ!と思うのは、生物として当然のことです。
それこそが私の感性、私の価値判断。
その気持ちを否定して、安心するようにやさしい言葉で強制してくるのは、無礼であります。
原発事故の責任をとることが、「復興」するという一本道というのも、独裁的な押し付けですね。
経済復興だけが価値観とは、あまりに鶏眼。
まだ、放射能の人体被害についてわかってないことが多すぎるのに、このぐらいの放射能なら安全であるといえる根拠すらない。
よくもまあ、長崎の被爆者の裁判で、この人はヒバクシャ認定で、このエリアの人は、精神障害とか、言い切れるよね。
裁判官が、いつ、専門家になったんだろう?
被ばくって、自分の責任ゼロですよ。
ウラン自分で掘りに行ってきて、中性子当てた人いないですから。
それを「国策」として、国として推し進めてきた以上、電力会社に不備があったとしても、そんなところに運転免許をあたえた国が悪い。

「国」が自分らがなしてきたことの責任を放棄するってことは、それは、もう「国ではない」ってことです。
旧ソ連が崩壊して、おまいら勝手に生きろ、と言われてたエリツィン時代のロシアの人々を思い出します。
保養も、避難も、検診(甲状腺・体調異変などなど)、そして1ミリまで被ばくさせない…それらすべては、国の責任であるとして、チェルノブイリ法を守ろうとしてきました。
エリツィン時代でさえも。
日本は…人に対して、国民に対して何も責任をとってない。
(汚染された土地にわずかばかりの賠償金はらったぐらいで、責任取ったと言えないよ。
だって、汚染がなければそこで1000年、生きられたのに。放射能がなくなるまでの年月の賠償金もらってないよね)
まあ、書くとまた、世界中から、サイバー的な嫌がらせを受けるのですが、明日、人生何が起こるかわかりませんので、書いていこうと思います。

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