BLOG

チェルノブイリの子どもたちとの交流記録 WeLoveBeralus 1

世の中、荒れてきていますね~
どんどんタガがゆるんで、明日核戦争が起きてもおかしくない…って感じになってきてるように感じます。
で、じゃ、ほんとうにそんなことになったら、自分が、もうダメだ!と思った時、何に後悔するのかな、やり残したことは?
って考えたとき。
やっぱり、チェルノブイリの里子たち、ベラルーシの人たちとの交流して思ったこと、感じたこと、考えたことなど、吐き出してしまわないと後悔するように思いました。
自分個人での体験ではなくて、私たちの活動はすべて募金でまかなわれたので、募金したりボランティアしてくださったかたみなさんに伝えきれたかな…。
原発事故を通して知り合った、日本とベラルーシです。
旧ソ連が崩壊して、チェルノブイリ原発事故が起こって、その救援活動を通して、交流が始まった。
最初の頃は通訳できる人もおらず(ロシア語を話せるボランティアのかたは本当に少なかった)、まして、同じ人間でも、やっぱり、ホームステイで生活してみると、生活習慣や文化の違いで、最初のころはずいぶんと行き違いが多かったのです。
もう、あっちの里親家庭、こっちの里親家庭からも、いろんなトラブルの声があがって、こんなはずじゃなかった…って、立ち往生。
でも、やっぱり
「子どもたちが元気になったね、また来年もやってあげようよ」という里親さんもいらして。
私たちは、どうしたらいいのだろう…と何度も悩み。
そうして、日本からベラルーシを里親さんたちが訪問することも同時に始まりました。
とにかく、現地に行ってみるしかない。
「子どもたちがあんなにわがままなのは、高級官僚の子どもが選ばれてきてるのよ」
という、推測と思い込みから出た批判もありました。
そんなわけで、私たちはおそるおそる、旧ソ連の一つの国…というお付き合いのなかったベラルーシの人々と交流を始めたのですが、結論的にはやっぱり、人間は同じだなってところに落ち着きました。
親は子どもの健康がいちばん心配で、ただ、それだけです。
私たちがベラルーシに行ってびっくりしたのは、感情表現が豊かで、よく来たよく来た!という歓迎をうけて、目を白黒させたことですね。
2011年に福島原発事故が起こるまで、ずっとチェルノブイリの子どもたちの保養は続くんだと思っていたんですが。
それまでの交流の記録、写真、いろんなできごとが、たくさんあった。
あちらの大人たちがどんなふうに子どもたちを守ろうとしていたか…などなど。
そんなわけで、大好きなベラルーシの人々との交流の記録をこれから、少しずつお伝えしていきたいと思います。
最初に、北海道の興部町で保養した里子のコースチャが馬車を運転してくれる動画があります。1994年。
馬車なんて初めて乗ったのですが、荷物運搬用でしたね。
馬は、コースチャのことをとても馬鹿にして、おならをかけていました。
わざわざ尻尾をもちあげて、バフっと。(その場面は映像にはないんですが)
コースチャのお父さんのときは、真面目に働いていましたけれど。
今回の動画は、活動の概要という感じで、写真の年代もバラバラ、でも、私たちの活動の雰囲気はお伝えできると思います。

チェルノブイリの里子たちとの交流記録WeLoveBeralus

さて、どうでしょう?
ご覧になっていただけたでしょうか?
子どもたちは、高級官僚の子どもたち?
当時、できたてほやほやのチェルノブイリ法がどんなだとか、どういうことで、移住政策が始まっていったかなど、知る由もありませんでしたが、いの一番に共産党の高級官僚たち、医師たち、教師たちが移住していったそうです。
移住の選択…って、ある意味、残酷でしたね。

  • チェルノブイリの子どもたちとの交流記録 WeLoveBeralus 1 はコメントを受け付けていません
  • 事務局日記

関連記事

コメントは利用できません。
ページ上部へ戻る