チェルノブイリの体験詩>>

ポレーシェのすばらしい地方
あなたでの生活はどんなに良かったか
あなたに抱きしめられたまま暮らした日々よ
それはかけがえのないものだった

思い出すたびに胸が痛む
そこでは私たちの人生は天国のようだった
小道、森…緑の草原
それらすべてが私たちのものだった

そこに住んでいた人たちの優しさ
仕事も友情も大切にして
パンも塩も平等にわけ
互いに訪問し合っ(飲み明かし)たものだ

ナロヴリャは静かな街
広々とした公園と
プリピャチ川が流れ
本当に天国だった

自然を誇りに思っていた
教会へ行って祈っていた
そして、爆発が地下から来るということを誰も思っていなかった

ある日、私たちは目覚め
互いに優しくほほえんだ
メーデーの朝だった
そして、天気が暑かった

パレードには風船やプラカード
人々はそれをいつものように楽しんだ
しかし人々は知らされていなかった
それを思うとなおつらいのだ

私たちの子供は花のように
晴れ着を着て、
詩を朗読していたのだ
メーデーについてだってしっかりした考え方を持っていたのだ

そして、祭りに水を差さないように
私たちに誰も真実を言えなかった
それは、たぶん、共産主義のせいかもしれない

結局、言わざるを得なかった
チェルノブイリは煙を吹き始めたから
あわてふためいてはいけません
大丈夫になりますって。

あと何日か待っていた
何も知らなくて。
何?なんで?どこ?質問がいっぱいあったが
本当のことは聞かせてもらえなかった

電話が破裂しそうだった
全国から電話をかけてきたから

これがひどい不幸だと言うことを
誰も知らなかった
チェルノブイリの爆発は強力だった
広島よりも強かった
そして、思い出すと痛いけど
私たちは、まただまされ続けた

突然人々は移住を始め
私たちは今からどうなるのか?
大衆集会に集まったり
政府が答えるように求めたりした
政府は権威を失わないように
人々の気持ちをあおりたてないように
最初に外交官が来て
そのあと国会議員も来た

話はとても美しかった
援助も送ってくれた。
いろいろな協会が創立して、
たくさんの人が海外へ行けた

書くことも、話すことも価値がない
政府は私たちを馬鹿にすることに慣れていた。
ピオネールの少年団の合言葉のように“いつでも用意ができている!”
言われなくても全部わかっていた

党の命令をみんな怖がっていた
声も出ないほど
でも、私たちは党をいつも信じていた
そういう時代だったから

委員会がよく来て、
要領を得ない話をしてくれた
私たちをヘトヘトに疲れさせた
真実を言った方がよかったのに

妻や子供達をどこに行かせたらいいか?
これからどうやって生きたり、愛したり、子供を産んだりしたらいいか?
どこでもパニック状態になった
もうおしまいだ…不幸が来た

これからどうしたらいいか、誰もわからなかった
そして、あと何年生きられるかということも
薬やでヨードをもらった
甲状腺をきれいにするために

政府の目が開いた
そしてすべては動きはじめた
女性と子どもが病気にならないように
緊急に移住させる必要があった

バスが来て
そこに女性と子供を乗せて
警察の付添で
遠いところへ行かせた

組織的ですばやく
空気がきれいなところへ行かせた
そうやって女性と子供が連れて行かれて
男が残った

一口話を作って男をなぐさめようとした
「父になりたいなら、
鉛のパンツをはきなさい」
とか

「サボロージェツは車じゃないと同じように
ナローブリャの男性は男じゃない」
そんな一口話でも
私たちは笑えなかった

私たちは機械を使い始めた
放射能を自分で計ろうという意図で
カウンターをもらった
退屈にならないように

放射能が見えないもの
感じることもできない
そして、腹がたった
そのごまかしはいったい誰のためだろう

最初から言ってくれたら良かったのに
そうしたら、政府にほまれあれ!
日本人が手伝おうとしたのに
政府に断られた

年々だまされて
私たちの身体に放射能がたまっていた
あまりにもおおげさな約束をしていた

大騒ぎが起こりはじめた
政府の中で混乱がおこった
私たちとけんかしたり、冗談をいったりしたから
こういうことになったのだ

私たちの好きなソ連
いつもゆるぎないソ連
グラスノウチが現れたとたん、完全に崩れ始めた

国の先頭にたっていた人が
自然保護林に集まってコーヒーのおりで占っていた
ソ連が存在するかしないかということについて考えて
崩壊させることに決まった

そうやって、民主主義とグラスノスチが
チェルノブイリがいらなかったということを
明らかにした
国民をだましていたのだ

人々を少し元気づけるために
ウオッカを飲ませてやろう
博士が来たときは
カベルネ(コニャック)を持ってきた

思ってもいなかったが
モスクワで禁酒法が出てきた
ウオッカを一本買うために
横っつらをぶんなぐられたこともあったんだ

行列がどんなに長かったか
レーニン廟までの行列と比べものにもならないほど
民主主義が私たちをまごつかせた
そして私たちは群衆の中でウオッカを飲んでいた

チェルノブイリをだんだん忘れるようになったが、
人々はまた待ち続けた
親しい友人を埋墓しても
彼らの名前を忘れていなかった

世界の国々は憤慨した
チェルノブイリのことはよく究明する必要があると
人々の生活がよくなるために
みんなを移住させる必要があると

始まった
私たちは連れていかれ
みんなそれぞれのところへ、地の果てへ
老いも若きもどんなに喜んでいたか
この地獄を離れることができて

そうやって私たちは
マンションをもらった街へ行った
首都の周りの町に
ようこそ

その時はとてもよかった
不幸が終わった気までした
でも、チェルノブイリが
私たちを待たせなかった
私たちは病気になったり、苦しんだりし始めた

病気も苦しみもひどかった
みんな家へ帰りたがっていた
子供達もわかってはくれないが
彼らのために移住されたところに住み続けていた

国は私たちに約束して
みなに特典を供与した
援助のことをいつも話していたが
そのうち、私たちのことを完全に忘れてしまった

私たちの町の首都は
何も言わずに私たちを引き取った
一番多くの移住者を受け取ったとのは
ミンスクだった
それは成功だった

外来診療所は私たちを待っていた
登録するように誘った
これからどうやって生きるか、どんな夢を持って
何を食べて、何を飲んで生きるかと説教した…

今ではもう痛いほどの思い出だが
私たちはどんなに悩んでいたかということ
みんなが私たちをそしったが
魂は神様に温められていた

失ったものが何もなかったなどと
勇ましいことを言う必要もない
もうすべてを支払った
私たちのどこが悪かったか
言える人がいるだろうか
予算が計上されたが
私たちはそれを見たこともなかった
全部チェルノブイリの支出として計上された
支配者層がストレス状態にならないように

通貨改革がきて
貯金を全部取られてしまった
どんなに苦労してそれをためたか
そのお金は私たちの希望だったのに

私たちのミンスクでの生活のことを
ここに書こう
どんな風に受け入れられたか
荒波に揺れていた日々のことを

大きな建物が建ち上がって
移住の時期が来た
急に故郷を離れるのはとても辛かったが
移住せざるをえなかった

誰も私たちを待っていなかった
ミンスクの人々は私たちを斥けて
後ろから言っていた
“ここはあなたがいるべきところではない”
ここは私たちのマンションだ
そこに放射能をもってきた
誰も来てくれとは言ってないから
帰りなさい

そして私たちに聞かないで
私たちの代わりにいろいろなことを決め付けた
でも、私たちはみんなと同じように暮らしたかっただけだ
朝の露の上を歩きたかっただけだ

すべてを病的に気にしていた
うしろから指さされたこととか
私たちのせいじゃないと
みんながわかってくれるはずなのに

そして、変なことだが、やっぱり時間が癒してくれる
時々、ろうそくをあげる
もうそばにいない人のため
一つだけの願いをもって
安らかに眠らんことを

今は私たちのことを思い出してもくれない
チェルノブイリの悲劇を忘れつつある
一年に一回だけ
そのことを思い出す

ここではゼロから始まった
仕事も、家も、友達も、家族も
そのときからもう十五年がたった(詩書かれたとき)
そして、答えを誰もくれなかった
私は詩人じゃなくて、小説家でもないけど、
心の痛みを超えられなかった
もう多くの年がいってしまったけれど
真実をみんはな知るべきだ

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